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2000年日本JC 寺田委員長との出合い ④

2017.09.03

この表題で書いていると、当時の気分が蘇ってきて、不思議な気持ちになります。

葬儀の時には感じられなかった彼の存在が、今は笑顔で近くにいるような錯覚が起きます。

17年前の彼の声が、みんなの声が、聞こえてくるような不思議な気持ちになるのです。

 

 

 

①提言書を書く方針が決まってから、私の中で葛藤を繰り返しました。ようやく”ある思い”へ至り、へたな文章を書く決心をしました。おかしな話私には最初から、トップの役員が決めたことを翻すだけの資格や力を持ち合わせてはいないことを充分に知っていたのにです。

 

”ある思い”とは。

7月下旬に開催された横浜サマコン当日の朝、印刷されたばかりの提言書が積まれた山を前に、寺田委員長から聞かされた次の言葉が、”ある思い”そのものでした。

 

一般の方からこの本に引き合いがありました。その方は北海道の方で、『小林さんや西尾さんが書くのは、物書きだから分かる。物書きでもない、一般の青年が書くからこそ、大きな意味があるのです。どうしたらその本が手に入りますか? 』と、そう言って、日本JCに問い合わせがありました。」と、委員長はそこにいるみんなに報告してくれました。

 

ひそかに、素人の私が日本の近現代史の一部を書く事を決意した理由が、まさにそれだったのです。

私は、身震いしました!

 

遠く離れた方との繋がりに、「偶然」と呼ぶ、不思議な「必然」を感じさせられました。

 

 

 

②2月の委員会までに、橿原の居酒屋で寺田委員長と奥田幹事に会いました。渡したいビデオと資料があったからです。つくる会のビデオを編集したものと、つくる会が作成した資料でした。

委員長は、「今回の出向に関し、幹事(事務局)の選考には特に力を入れたつもりです」とか、「そのビデオはダビングして全員に配りましょう」と言っておられ、その居酒屋での会議にしろ、委員会にかける意気込みには圧倒されるものがありました。

 

その居酒屋はJCによく使用されるのでしょう、橿原のOBの方が親しく委員長の隣に座られ、なぜか選挙関係の話になりました。暗に選挙に出る気はないかと打診しているように感じられました。その後10年ほどして町長選に出馬されたことで証明されたわけです。

 

その場でのやり取りを見て、後輩に慕われ、先輩にも慕われる、彼の人柄や人望がすぐに伝わってきました。

実に、居心地の良い居酒屋のひとときでした。

 

 

 

このブログは、あくまで個人の、私からの視線で書いています。紹介する提言書の一部も、私が書いた私に責任があるページにとどめています。

 

 


 

2月の委員会が開催された。

 

配属する小委員会と、担当する年代が発表された。

 

私が所属する第二小委員会は、『昭和初期から終戦』と『教科書の現状について』。小委員長は、染谷氏。

 

例のダビングされたビデオと資料が配布された。再度のダビングでより見にくくはなっていると説明があった。

 

会議が始まり、最初に教科書問題への誤解から来る意見が出たので、現状を説明した。あえて、南京事件や従軍慰安婦問題には触れず、後に「律令の施行、重税に苦しむ農民の姿」(「教科書の現状について」)で解説する内容を例にして話した。現状の歴史教科書では、『続日本紀』に出てくる史料を180度歪曲し、朝廷(為政者)を悪く・暗く印象づける教科書の記述を批判しながら説明した。記述の偏向さに、皆ビックリしていた。

次に「南京大虐殺」について、中国からの横やりがあると困るから、ほどほどな記述で良いのではないかと私の小委員会から意見が出た。気持ちはよく分かる。そこでも割り込んで発言した。

「批判一辺倒の記述ではなく、学術的には数十万人虐殺説から、ほとんど無かった説まであります。そこを落としどころにし、諸説あるのに何故大虐殺説ばかり取りあげるのかと指摘できます。

問題は、この提言書を作成したことにより、委員会メンバーが外国からの批判や圧力があったり、外交問題に発展するといようなことがあれば大変なことになります。執筆者の名前は伏せたほうが良いのではないでしょうか。」

 

「そうですね、迷惑がかからないように私の名前だけ代表に載せましょう」と、委員長は断言されました。

 

提言書を書くにあたって、本当に中国や韓国からの外圧を警戒していました。結果的には、何処からも批判されませんでしたが、最後まで気が抜けませんでした。

 

休憩時、横田OBとたしか高鳥氏が、この委員会に「左翼がいる」と慌てていましたが、直感的に「大丈夫です。ちゃんと聞いてくれてましたよ」と笑って答えておいた。そう核心があったわけでは無かったのだが・・・。

 

 

横田OBから採択への関わりについて再度話が出た。委員長に視線を送り次のように発言したと記憶する。

「やはり、採択の運動は難しいと思います。この委員会は、教科書の自虐史観の現状を一人でも多くのJCマンに周知していくことが最重要と思います。」

「その上で個人の責任において、採択の運動に進みたいと思う人が出てくれば、つくる会に入るなり何かの運動に参加すれば良いと思います。それが役割だと思います。すでに私はつくる会に入っています。」

 

委員長と、横田OBと私のやり取りはこの流れで進んだ。次の会議から横田OBの姿は見なくなった。

 

本音を言えば小林さんとともに動きたかった。しかし現状を考えれば不可能だと思った。委員長からの役員会の反応などから推測して、日本JCにその土壌はまったく出来てないと推察した。よしんば、その勢いに乗って採択の運動に参加してしまえばどうなるだろうか。最悪の事態も想定されると危惧した。日本JC史上始まって以来役委員会でことごとく否決され、この委員会から提言書も出せないまま空中分解に終わる恐れがあると予感したのだ。それを一番怖れていた。

 

話はだいぶ先へ進むが、のちに委員長から次のような話があった。提言書に対する採決で、沖縄で反対票が投じられたこと。これは史上初めてのことらしい。また12月の報告として、当委員会が次年度に継続されなかったこと。

それらを考えると、やはり空中分解も充分あり得たんだと思った。それでも一縷の功績はあったようだ。”この提言書に書かれていることは本当なのか? 今後近現代史を調べる”という事が次年度に引き継がれたことは、一つの成果だった。

 

委員長は、「力不足で申し訳なかった」と言われたが、数年後に共産党が国会で取りあげ反対した、日本JCの学校教材DVD「誇り」(2007年「近現代史教育プログラム」)が政府の補助事業として展開されることになったのだ。それ以降、「近現代史」を見直すテーマや、委員会の立ち上げ、例会や事業が各地で開催されていることがインターネットで確認できる。

 

経緯を詳しく知らないが、若い世代が一生懸命考えて取り組んだことを大いに賞賛したい。

幾分言葉足らずな面があって、誤解を受けることもきっとあろう。

長い間左に傾いていた船が急に右に舵を切ったのだから、暫くの間揺り返しはあって当然だ。

 

 

さて、委員会は小委員会に分かれいよいよ提言書作成に入っていく。タイムリミットは、7月はじめだ。

 

 


 

私のことをもう少しだけ。

 

私は、当時教科書問題で私なりに戦っていました。そう自覚しています。この委員会もそうでした。

それと同時に、頸椎の強い痛みと闘っていました。当委員会の人はみんな知っている事ですが。後に人間ドックや医大・痛みセンターで詳細が分かりましたが、強い痛みは、あるときは脳虚血症を引き起こしていたようです。疲れやすかったり、意識が薄らぐような症状と闘いながら日常生活、JC活動、当委員会活動を人知れず送っていたのです。

今は原因が気象病(天気痛)と分かり、漢方薬も良く効き、トリガーポイント鍼治療でだいぶ良くなっています。

 

当時は、訳の分からない疲労感から、二次会は欠席、または途中退席が普通でした。委員長からよく冗談を言われ、仲間からもよくからかわれたこともありました。

 

この委員会では、幾度となく英霊達からの不思議な支えもあり、何とかやっていけました。委員長との方向性・関係性や、配属された小委員会の人たちとの方向性・関係性を重要視し、担当する執筆に力を入れました。それ以外のことは、放棄せざるを得なく、体力的にも精神的にも人並み以下だったと思います。同窓会に一度も出ないのはそのためです。

 

 

 

そういう経緯で、共闘をも視野に入れて言葉をかけてくれた高鳥氏との関係性を、深める余裕は私にはまったく無かったのです。むしろ、私などかえりみずに、どんどん実力を発揮して欲しいと思っていました。

 

痛みがなくなって元気になったら、寺田君や皆に会おうと思っていました。

後悔しています。

何が理由であれ、互いに信頼しあえた友人にここ数年会わないでいたことを。いなくなって、初めてその重大さを知らされました。

私も、いつ急な病に冒されるかも知れませんから、今のうちに遺しておきたい。

記録することで、彼や私たちの365日が永遠に生き続ける事が出来るかもしれないからです。私は、そう信じています。

 

 

もう少しこのブログは続きます。