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2000年日本JC 寺田委員長との出合い ①

2017.08.15

早世した友人、故寺田委員長との出合いに触れようと思う。

 

 

その前に、1997年頃から始まった、私と歴史教科書問題との関係を最初に述べなければならない。その方が、約3年ほどの後に出来た、当委員会での私の立ち位置がおわかりいただけると思う。

 

 

 


 

私が小中学校の歴史教科書の自虐性に特に関心を持つようになったのは、

小林よしのり氏の連載「新・ゴーマニズム宣言」(ゴー宣)で慰安婦問題・歴史認識に疑問を投げかけられた頃。

その後1997年に発足した「新しい歴史教科書をつくる会」(つくる会)に出会ってから本格始動した。

 

つくる会が発足された理由は、中学校歴史教科書に所謂「従軍慰安婦強制連行説」が全ての教科書会社に記載されることが判明したからである。

 

 

当時小林氏はつくる会の理事の一人として、歴史教科書の現状のあまりの酷さを、隔週週刊誌「サピオ」(小学館 現在隔月刊誌)誌上「新・ゴーマニズム宣言」に描いていた。

私が学校で受けてきた自虐の歴史教育が、より酷さを増している現状を知らされた。

そして、何故そのような自虐の歴史が学校で教えられるようになったのかが知りたくなった。また、世論を形成する多くのマスメディアの論調や、政治家の問題発言がよく糾弾されていた理由にも興味を持った。

 

自虐の歴史を植え付けられた側の当事者として、無自覚に自己を苦しめていた病理(提言書では、この部分を「自虐史観は、子供達を日本人を遠回しに自信喪失させ、必要のない原罪を背負わせる ことになった。」または「自己不在の病理」と表現している)から抜け出す必要を強く感じるようになっていたのだ。

 

小林氏が発表した「戦争論」(1998/7/10発行 幻冬舎)や、つくる会の会長であった西尾幹二氏が発表した「国民の歴史」(1999/10/25発行 扶桑社)は、実に衝撃的だった。

 

それまでの多くの日本人の認識を、がらっと変化させた、と思う。

 

つくる会主催のシンポジウムにはほとんど参加し、戦後の歴史教育の経緯を知ることになった。その中で、失った歴史を知り、本来の日本人の誇りを初めて知ることが出来たのだ。

会場では、大学生など大勢の若い人たちに混じって中学生の子も見かけた。

 

 

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南京大虐殺、従軍慰安婦強制連行をはじめ、子供心にも深く傷ついたことのある諸問題の幾つかが、戦後行われた東京裁判に起因していることを識(し)った。

勝者が敗者を裁いた一方的な判決に基づいた、ねつ造に近い不公正な裁判であり、二度による人類史上最も非道な行為である原子爆弾投下を正当化するための、日本人を自虐に導く裁判であった。日本を再び反攻させないための、心の武装解除の役割があったのだ。

 

それ以来、出回っている嘘のキャプションが付された写真を見ても、二度と罪深さを感じることは無かった。(岩波文庫がかつて、中国の婦女子を賊から護衛している笑顔の子供と日本軍を撮した写真(アサヒグラフ)を、笑顔が見えないようにハレーション加工したものを転用し、”慰安婦として強制連行している”というようなキャプションにすり替えたことがあった。その後問題になり慌てて差し替えたことがあった。)

 

 

歴史認識を再構築して、なにより、祖父母への敬愛を取り戻すことが出来た事は、私にとって非常に大きかった。

 

 

 

20年以上現在まで続く小林氏への私の信頼はことのほか大きい。

 

連載されるゴーマニズム宣言等のほか、「ゴーマニズム宣言  差別論スペシャル」(1995年・解放出版社 後に1998年文庫版が幻冬舎から出版)や「新・ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論」(1996/8 幻冬舎)を読んで、タブーや欺瞞を衆目に晒し、真実の前に果敢に思想を貫く氏の揺るがない姿勢をずっと見続けてきたからである。また小林氏は、オウム事件の解明や薬害事件追求などにも深く関わっていた。

 

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数々のシンポジウムの会場で講演する氏の姿は、普通ではなかった。

 

つくる会の理事などを構成するメンバーは、ほとんどが有名大学の教授であった。その中に異質に存在するのが、漫画家の肩書きの小林よしのり氏である。当時まだ私が権威主義から脱却できていなかったからかも知れないが、講演前に異色の組み合わせのおかしさと不安でドキドキした。

氏の話が始まると、その不安は消え去った。他のどの学者より、面白いし、言葉に冴えがあった。

時として、その言葉と共に強烈な光が放たれる衝撃を感じることが多かった。それは、他の講演者からは感じられない身震いするようなものだった。氏の言葉については、同じようなことを一水会の鈴木邦男氏も話している。

そういう意味で、氏は普通ではなかった。奇才の人と言って良い。

 

 

 

1998年の夏の初め、初めて靖国神社を訪れた。

 

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写真は2015年撮影したものです。

 

 

坂を上ると、中門鳥居、神門と本殿、が見えてくる。不思議なことが起きた。

その上部一面に、英霊達の姿が、あたかも立ちこめる夏雲のように沸き立ち、私を迎え入れてくれたのだ!。

実際は、雲一つ無かったのだが、”英霊達が迎え入れてくれている”とそう感じたし、私には英霊達の入道雲がハッキリ見えた。

 

 

 

 

歴史教科書問題が世間で注視されてきた頃の1999年8月15日、終戦記念日に中門鳥居のほぼ最前列に並んだ。みんながそうしているのでそう並んだ。初めての事だ。

正午に近づいて後ろを振り向くと、おびただしい人の数が並んでいるではないか。後日知ったが過去にないほどの参拝者数だったそうだ。

前年発売された「戦争論」が、ベストセラーになっている。その影響は大であろう。

市井の人たちの、普通の光景で満ちていた。強面の方々は、目立たなかったからか印象にない。そして、当時はまだネトウヨも存在していない。

 

中門鳥居の柱の外で、おびただしい参拝者の列を見渡す一人の記者がいる。

たぶんA社か、じつに苦々しい顔で見ているではないか。あれほど反日国寄りの内容を書き立てたにもかかわらず、こんなに人が参拝に来ている・・・。そばで見ていて、少しかわいそうなくらいだった。

彼らは、例年より参拝者が沢山いた事実は、絶対記事に載せない。

 

その年は春頃から毎日、仕事を終えた事務所に残り、一時間弱ほど教科書問題と失った歴史を取り戻す方法を延々考え続けていた。それが数ヶ月続いたおり、事態が急展開しはじめた!

 

 

同じく秋、三重県で開催されたつくる会支部の講演会に参加した。登壇者は高森明勅氏であった。講演終わりに名刺交換をした。私の名刺を見てJCの話が出た。「今度、日本JCで急遽『新しい(歴史)教科書づくり委員会』が出来るそうですよ」と仰られた。

私は、驚きながらも、とっさに、参加します!と即答した。

高森氏はにこやかに応援してくださったのを記憶している。

 

 

すぐに久居事務局で出向の申請準備にかかったが、資料には、他の委員会はすべて出そろっているというのにそのような委員会はまだ存在さえしていなかった。日本JC(青年会議所)に確認の連絡を入れると、当委員会は存在し、奈良県の問い合わせ先を教えていただいた。最終的にそこで初めて彼(寺田委員長)と直接電話で会話した。

 

 

 

久居JCの松本理事長(当時)に許可をいただき、写真撮影、申請書類等を送付した。

慌ただしい中、新年度の基本資料に抱負を載せた。

 

11月か12月に三重ブロックに出た。濱田ブロック会長(当時)と名刺交換した。すると、私の出向先と基本資料を知っておられ、「ああ基本資料知ってます。読みました。すでにコピーして知り合いに配りました。」と。これには、かなり驚かされた。

 

久居ロム(当時)の12月例会でも基本資料に関心を持って頂く先輩が多数おられた。興奮気味に目を輝かせてお声かけいただき、ここでも驚くばかり。山中氏、棚橋氏、藤村氏、ほか。

基本資料に載せた私の抱負については、後ほどお見せします。

 

 

 

 

その年の12月、第1回の新しい教科書づくり委員会が東京の日本JCで行われた。

JCは、単年度制で新年度は一月から始まる。新年の京都で行われる京都会議の準備である。新年度は、いつも京都の宝ヶ池にある国立国際会館から始まる。一月終わりの土日の京都は、JCだらけになる。

 

私は、新調した安くて生地の良いスーツを着て、新調した靴で出かけた。手には、ジュラルミンのスーツケース(決して高くないやつ。その後委員会内ではトレードマークになる。)、バーバリーの名刺入れを用意し準備万端で向かった。胸には必須のJCバッチをつけて。単年度制は短い。教科書採択もあと数年先だ。時間を効率よく使うため、身なりから工夫をしたつもりだった。

 

 

 

 

そして、ついに東京駅に降り立った。勇気と不安を同居させながら。